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北鮮民主主義共和国ニュース/ 2015 2014 2013
北朝鮮民主主義共和国ニュース・2015/ 12 11 10
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朝鮮民主主義人民共和国・建国の歴史
朝鮮人の前提
朝鮮民族を考えると過去、朝鮮半島は永いシナの属国の歴史があり、シナ人の生き様、半島の両班文化と階級制度、奴隷制度に大きく影響を受けた。
そこに突然、日韓併合、朝鮮人は突然、自由を知り、皆が覚醒した。
そして、個人主義が台頭、更に自己都合主義へと変貌を遂げた結果、互いに思いやる精神が醸成されず欠落、自己都合でしか生きる事が出来無くなったのであろう。
日本人は今年皇紀2675年、朝鮮半島は1910年の日韓併合から僅か100年余り、朝鮮人に人格が備わるハズが無かろう。
建国の歴史
1948・9・9 朝鮮民主主義人民共和国独立・建国。
北朝鮮はソ連による朝鮮占領期に国家の基盤が形成された。
建国当初、北緯38度線以北を領土としたが、朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)以北が領土である。
韓国同様、嘘が多い国である。
年 代   事 案
日韓併合時代 共産主義者
朝鮮人、ソ連に逃亡
朝鮮人、共産主義者はソ連に滞在期間中、朝鮮全土の占領を画策
朝鮮半島に朝鮮人による共産主義組織があった事は十分考えられる
ソ連は、東ヨーロッパの衛星国に対して採った方針を踏襲し、第二次世界大戦期をソ連で過ごした朝鮮人共産党員に、このんで権力を与える方針を持っていた。
 
朝鮮半島の共産主義者はソ連のスパイとして行動していたのであろう。
年 代 事 案  解 説
1945・8・9 大東亜戦争・ソ連参戦 1922に十月革命(共産革命)により誕生したソ連は、1944年に締結した日ソ不可侵(中立)条約を一方的に破棄
大日本帝国の権益を持つ満州国、朝鮮半島、樺太、北方四島に侵攻を開始
1945・8・10 朝鮮半島
分割統治を提案
アメリカはソ連アジア侵攻の対応を検討、国務省、海軍省、陸軍調整委員会に於いて38度線での分割案を30分で画定、トルーマン大統領が承認
1945・8・15  大東亜戦争終結
日本統治終了
大日本帝国・大東亜戦争に於いてアメリカ戦に敗北 
ポツダム宣言を受諾した大日本帝国は、朝鮮総督府政務総監を動かし、半島が無政府状態に陥る事を恐れ、人民保護の為、呂運亨(朝鮮人)に臨時政府樹立を依頼した
( 大日本帝国は敗戦を喫したが敗戦後も人民を気使っており、これが奴隷的植民地だっただろうか?)
1945・8・16  38度線確定 ソ連はアメリカの提案を受、38度線が確定 この頃、米ソ間に隙間風が吹き始め米ソ冷戦時代の幕開けである
1946・2 金日成
北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任
ソ連は、朝鮮の共産党員の指導的役割を担っていた金日成を、朝鮮北部の行政機関である北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命した
当時、金日成は朝鮮の共産主義者の中では少数派だった
帰国直前、モスクワで行われたスターリンとの会談で、ソ連が樹立を考えていた朝鮮の共産党政権の指導者として認定されたと言われている
1946・11・3 北朝鮮政府成立(総選挙) 北朝鮮臨時人民委員会は、総選挙で朝鮮北部の政府と成立した
1947・2 北朝鮮人民委員会発足 北朝鮮臨時人民委員会は「北朝鮮人民委員会」に再編成された
金日成はその後、朝鮮共産党北朝鮮分局を結成、徐々に反対派を、殺戮、追放を実行した
1949・6・30 北朝鮮独立 ソ連の朝鮮占領軍が監督する中、独立を宣言した
北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し、朝鮮労働党が成立
北朝鮮は未だ、金日成は権力集中が果たしていなかった
この頃、
満州北部でパルチザン(ゲリラ)闘争を行っていた金日成の満州派の他、朝鮮北部甲山軍を根拠地に満洲派と共に東北抗日聯合軍を構成し
普天堡の戦いを共に戦った縁で、当初関係良好・準同盟関係だった甲山派(領袖は甲山工作委員会・朝鮮民族解放同盟を結成した朴金喆) 
日韓併合時代、半島で抵抗運動を続け戦後、南朝鮮労働党を結成していた南労党派(領袖:朴憲永)はシナ共産党の八路軍に所属し、抗日闘争していた延安派
延安派はソ連に渡りソ連の国籍を有しているソ連派などの勢力に分かれていた
2015・3・31 産経ニュース 龍谷大教授 李相哲 必見 満州国関連記事 
名をはせた普天堡戦闘…実態は犠牲者幼児1人  虚構の進軍命令、ソ連軍は「対日戦に参加させず」
「記事内容抜粋」
金正日(キム・ジョンイル)は2010年8月、父、金日成(イルソン)が学んだ中国吉林市の毓文(いくぶん)中学校を訪れた。
2年前に脳卒中で倒れてからは体調が優れず、無理を押しての外遊だった。
真偽は不明だが、後継者の金正恩(ジョンウン)が同行したとも伝えられた。
事実なら「革命発祥地」として、見せておかなければならない何かがあったのか。 
1927年2月、日成は父、金亨稷(ヒョンジク)の知り合いを頼りに毓文中を訪ね、中学2年に編入した。
旧満州で漢方医をし、独立運動にも携わった亨稷は、地元朝鮮人社会でそれなりに名の知られた存在だったようだ。 日成は回顧録『世紀とともに』で、こう振り返る。 
「吉林にいる名士らは、ほとんど父と面識があった。父の親友らの家を頻繁に出入りし、そこで独立運動指導者たちに出会った」
日成は「金日成」という名が「祖国」でどう伝わり、実年齢がどのような反響を呼ぶかを熟知していた。
それを利用しようとしたソ連の思惑をも逆手に取って瞬く間に権力を手中にする。
  駐在所はぬけの殻  “消去法”の地位  利用しようとしたソ連「若くうれしい」  
 
金日成の北朝鮮誕生秘話であろう。
朝鮮半島は嘘だらけ、北も南も建国に至る歴史は嘘で飾られている。
シナも同じだが・・・日本以外、北東アジアは嘘つき国家ばかりである。
2015・7・28 産経ニュース (1/5ページ) 龍谷大教授 李相哲 
朝鮮戦争時の“英雄”が謎の死 「世襲はあり得ない」公然と反対後、疑惑だらけの「事故」
「記事内容抜粋」
金正日(キム・ジョンイル)が手にした権力は、実務レベルでは父、金日成(イルソン)をしのぐものだった。
一方で、権力掌握過程を間近で見てきた黄長●(=火へんに華)(ファン・ジャンヨプ)が「金正日が党機構を即興で動かすようになると、思い付きの政治を誹謗(ひぼう)する声が高まった」と回顧録に記すように、独断・専横に対する不満が朝鮮労働党内にくすぶっていた。
そんな反感に対し、正日は「秘密警察の数を増やし、自分を中傷している疑いがあるとの密告を受けると、容赦なく逮捕して処断し」(黄)、力でねじ伏せていった。
そうした重苦しい空気にあっても反対の声を上げる幹部がいた。
代表格が、副総理兼軽工業委員会委員長の南日(ナム・イル)と副主席の金東奎(ドンギュ)、対南工作担当の党書記、柳章植(リュ・ジャンシク)だ。
なかでも、朝鮮戦争時に世界的に名が知られた政権重鎮の南日は「共和国と称する北朝鮮で、封建王朝のように世襲とはあり得ないことだ」と、正日後継体制に公然と反対を表明した。
  「敵は美男子」韓国紙がくぎ付け  香港紙が「金日成が殺害」と疑惑報道  「騒いだら君も私も終わりだ」
中略
抗日パルチザン出身の東奎は、戦闘中に負傷し、片方の腕を失った「英雄」だ。
さらには、日成と別の副主席、金一(イル)に次ぐ3番目の実力者で、実直な性格から精神的な支柱として慕う幹部も多かった。それだけに、「英雄」からの表立った批判は、正日にとってこの上ない痛手となった。
建国後の歴史
年 代 事 案  解 説
1950・6・25 朝鮮戦争勃発
大韓民国侵攻(南進)
北朝鮮は南進し、李承晩を釜山まで追い詰めた
この時、李承晩は日本への亡命を画策した話は有名
マッカーサーから諌められ亡命を果たせなかった
朝鮮戦争は大韓民国参照
1953・7・27 朝鮮戦争休戦協定 朝鮮戦争は軍事委員会委員長となった金日成首相の権力を強化、
甲山派、延安派、ソ連派と連携協力し、最初の政敵・南労派打倒へ
朝鮮戦争の際、シナの介入により、中朝連合軍が節制された際、中朝連合軍の彭徳懐司令官は金日成を差し置いて延安派の朴一禹を中朝連合軍副司令官に任命
1956 スターイン批判 第一書記に就任したフルシチョフはソ連共産党第20回大会に於いて
スターリン(個人崇拝)を批判した
個人崇拝を進める金日成の個人崇拝に影響を与えた
朝鮮労働党内の延安派、ソ連派が、金日成の批判を強めた
1956・8 8月宗派事件 金日成は甲山派と共同で強権的に政敵を逮捕・除名し乗り切った
1950年代末までに、当初の政敵派閥を駆逐した
1956 千里馬運動 農業の集団化、産業の国有化が開始
1962・10 シナ・ソ連の対立 キューバ危機
1960年に入りとシナとソ連の対立が始まったが、北朝鮮は親シナに傾斜していく
1966 文化大革命 紅衛兵等文革派は金日成を修正主義者と批判
シナとの関係が悪化、ソ連に接近、1950年代に比べ、ソ連の経済援助額が激減し、計画経済が行き詰まり、経済危機到来
1967 甲山派粛清 金日成、全権掌握
最後に残った甲山派の粛清・駆逐が行われた
1972・.12・27  新憲法制定 名称;「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」 主体思想が記された
独立時の憲法は首都が「ソウル」
新憲法は首都を「平壌」に定めた
これまで首相だった金日成は主席に就任した
1970年代~ 日本人拉致事件発生 北朝鮮の工作員や在日朝鮮人、朝鮮総連、よど号グループ弐より、多くの日本人が拉致され北朝鮮に送られた国際犯罪事件
日本ではテロと認定
1980・10 高麗民主連邦共和国構想 朝鮮労働党第6次大会で高麗民主連邦共和国構想を発表、韓国の政権打倒と南北統一を促した
韓国・全斗煥政権時代、光州事件発生、北朝鮮は南北統一の好機到来と捉えた
1983 ラングーン事件 全斗煥大統領のアジア諸国歴訪に合わせてビルマにてラングーン事件を起こし、韓国政府の要人複数を暗殺
北朝鮮政府の予期に反してこの事件は国際的非難を浴びるた
1987 大韓国空機爆破事件 韓国で再び全斗煥政権と対決する民主化闘争が激化すると、勢いづいた北朝鮮は大韓航空機爆破事件を起こした
世界から孤立した
1988 ソウルオリンピック 韓国は経済発展を遂げ国際社会における地位を確立
1991・12・ 南北が国連に同時加盟
南北共同合意書
朝鮮民主主義共和国と大韓民国は国連に同時加盟
南北共同合意書、非核共同宣言が採択された
1993・6 米朝交渉開始 北朝鮮の核問題に対してアメリカが交渉に当たる
既に開発していた原子炉の平和利用への転換などが検討された
1994・7・8 金日成死去 殺戮の幕を閉じた
82歳、死因は執務中の過労による心筋梗塞
1994・12・27 米朝枠組み合意 金日成死後、アメリカのビル・クリントン大統領と北朝鮮当局の間で米朝枠組み合意が結ばれた
1995・3 KEDO 日本は米韓からだしに使われ費用は日本が負担した
北朝鮮のエネルギー調達を補う為、朝鮮半島エネルギー開発機構を設立すると、核開発問題は1つの区切りをみせた
結果は朝鮮人に騙された
1998 テポドン・ミサイル発射 再び国際社会と対決姿勢を強めた
1999 経済制裁一部解除 米国主導で日米韓と北朝鮮との交渉が進められた
北朝鮮がミサイルの発射実験を行わないとの合意が成立
再び騙された
2002 日朝首脳会談
拉致被害者一部帰国
北朝鮮は日本人拉致を認め、謝罪、再発の防止を約束
何ら賠償は行われなかった
この時、5人の拉致被害者を連れ帰ったものの、戻す約束と1兆円の支払いを約束していた
当時、馬鹿な約束を知った安倍晋三官房長官(現総理)と中山恭子参議院議員が阻止した
小泉元総理、田中均の二人が当時、こんな馬鹿な約束をしていたなどと誰も思いもせず、国民上げてただただ喜んだ
その後、何ら進展が無い
2003・1・10 NPT脱退 北朝鮮はアメリカの軍事的脅威を理由に挙げ、核拡散防止条約第十条を根拠にNPTからの脱退を通告した
2003・8 六者会合 北朝鮮問題を中心議題に、北朝鮮、アメリカ、シナ、韓国、日本、ロシアの六か国によって六者会合が始まった
これも騙された
2005・2・10 核兵器保有宣言 北朝鮮は公式に核兵器保有を宣言
2006・10・9 地下核実験実施 核実験を行った北朝鮮は定義された「核兵器国」以外の事実上の核保有国となった
2011・12・17 金正日死去 国防委員長が」死去
金正日と高英姫の間に生まれた実子且つ金日正の孫の金正恩が後継者となった
その後「元帥」と言う称号が与えられた
2015・6・23 産経ニュース (1/6ページ) 龍谷大教授 李相哲 【秘録金正日(30)】
北朝鮮版「紅衛兵」、未婚男女をけしかけ権力層を刷新 「党問題は正日同志に集中させよ」
「記事内容抜粋」
1973年は、金正日(キム・ジョンイル)にとって、公私ともに充実した年だった。
映画女優出身の成恵琳(ソン・ヘリム)と同棲(どうせい)し、長男、金正男(ジョンナム)を授かりながら、他の女性とも結婚し「正式」に所帯を持つことになる。
  《ある日、恵琳が3歳(数え年)になった子供(正男)を背負って庭の桃の木の下にいると、正日の妹、金敬姫(ギョンヒ)が兄を連れにやってきた》
新しい花嫁を迎える日の正日の様子を、恵琳の姉、成恵琅(ヘラン)は手記『北朝鮮はるかなり 金正日官邸で暮らした20年』でこう記す。
  《その日が「宴の日」とは知っていただろうに、正日は、妹に背を向けて寝てばかりいた。「行こうよ、お兄さん。行こうよ」。姫君(敬姫)は返事もしない兄を揺さぶり起こして連れて行った。恵琳は子供を背負って木の傍らでぼんやりとたたずんでいた》
別の女性を迎える正日と恵琳の微妙な心境が垣間見える。
  花嫁はエリートの娘  全党員に「赤手紙」  「党中央」呼称でメディアに登場
中略
英柱は何ら権限のない副総理に降格され、正日は父に次ぐ権力を手にした。
政策決定者となった正日を指す「党中央」という特別な呼称が北朝鮮メディアに登場するのはこのときからだ。
 「後継者への階段」編おわり
2015・8・4 産経ニュース (1/5ページ) 龍谷大教授 李相哲 【秘録金正日(36)】 
「米国のやつらを懲らしめてやれ」第2次朝鮮戦争危機に乗じ批判者を粛清
「記事内容抜粋」
副主席の金東奎(キム・ドンギュ)による金正日(ジョンイル)後継体制批判が噴出した1976年6月の朝鮮労働党中央政治委員会会議の翌月、金日成(イルソン)は、政治委会議を再招集する。
危機にあっても常に日成サイドに立ってきた抗日パルチザン出身の政権重鎮、崔賢(チェ・ヒョン)や金一(イル)、崔庸健(ヨンゴン)の支持の下、これ以上、批判が尾を引くのを断ち切ろうとした。
ところが、崔賢は人民武力部長のポストを呉振宇(オ・ジヌ)に譲ったばかり。
東奎より上席の副主席、金一は老いて往時の力を失っており、庸健は病欠した。
崔賢と金一は、東奎に「自己批判」を促し、事態の収拾を図ろうとするが、東奎はこう言ってかたくなに拒んだ。
  「私は金正日トンム(同志)に反対するのではありません。工作(仕事)方法上、見直すべき点があると言っているのです」
総理に起用され間もない朴成哲(パク・ソンチョル)ら他の政治委員はそろってだんまりを決め込む。
揚げ句は、党組織指導部副部長で、対外工作を担う連絡部(後の対外連絡部)長の柳章植(リュ・ジャンシク)まで東奎に同調し、正日非難を始める逆効果を生んだ。
  「引っ込んでいる」上司をないがしろ  「気概を見せてやれ」「銃は使うな」  20万人を平壌から追放
中略
準戦時体制は翌年夏まで続き、正日は、それに乗じて金東奎と柳章植の追い落としに成功する。
77年10月の党政治局会議で、東奎は民心を乱した罪に加え、裏切り者と名指しされた。
柳はスパイ罪に問われ、ともに北部の山奥に監禁された。
正日主導ででっち上げられた調査資料が証拠とされ、疎開事業での混乱の責任までなすり付けた
2人に同調した軍幹部の多くも粛清される。
人民武力部副部長の池炳学(チ・ビョンハク)や、同副部長で成沢の叔父の張正煥(ジョンファン)、党検閲委員長の池京洙(ギョンス)は保衛部に連行された。
苛烈な追及が続くなか、京洙と炳学は相次ぎ死亡。
成沢をかつては庇護(ひご)した正煥までも職を解かれ、北部慈江道(チャガンド)に放逐される。